こんにちは、名張東田原店です。
毎日、雨降りが続くと、早く梅雨明けして欲しくなりますね。
最近、RSシリーズばかり、まるでクルマ屋さんのブログみたいになってしまっていましたので(笑)
本日は名張にまつわるお話などをしたいと思います。
6月に、本能寺の変が起きて、徳川家康の「伊賀越え(神君伊賀越え)」は、
本能寺の変の発生をきっかけに始まり、
堺から京都・甲賀・伊賀を通って三河国(愛知県岡崎市)へと逃げ延びたのは通説なんですが
なんと、「長谷街道(今の165号線)経由説」
というのが近年歴史研究家や作家らの間で注目を集めているんです。
1.長谷街道経由説のルート
通説が京都南部(宇治田原)や滋賀県(信楽)といった「北側」を迂回するのに対し、
この説では「真東」へ直線的に進みます。
· 想定ルート: 堺 ⇒ 竹内峠(現:国道166号)を越えて大和国(奈良県)へ ⇒ 大和平野を東進(高田など) ⇒ 長谷街道(初瀬街道 現:国道165号線)または伊勢本街道 ⇒ 青山峠または高見峠を越える ⇒ 伊賀南部から伊勢方面へ。
2. 説の根拠となる史料
この説が単なる推測ではなく議論されるのは、
• 複数の同時代〜江戸初期の史料に「大和を通った」記述があるためです。
『当代記』の記述: 家康の孫・松平忠明の著とされる史料に、
「家康は堺から大和路に入り、高田の城(奈良県大和高田市)に立ち寄って
道案内と警護を依頼した」という旨が記されています。
• 家康の感謝状: 家康がのちに大和の国衆(十市氏など)や案内人(和田氏など)に対し、
「このたびの大和越え(高見峠などの通行)では道案内や警護で世話になった」
と恩賞や感謝を伝えた書状が実在しています。
3. なぜ長谷街道ルートが考えられるのか?
• 最短距離であるため: 堺から本拠地・三河(愛知)を目指す場合、
大和を突っ切る長谷街道や伊勢本街道のルートが地理的に最も直線的でロスがありません。
• 安全の確保: 当時、大和国を支配していた織田方の武将・筒井順慶は家康と親交がありました。
明智光秀の謀反に対して順慶がどちらに付くか不透明な状況ではあったものの
、光秀の勢力が強い京都・山城方面(通説のルート)を避けるために、
あえて大和の国衆を頼って駆け抜けたという見方です。
4. 歴史学界での位置づけ
現在は「通説(信楽・甲賀経由)を補完する説」または「陽動説」として議論されています。
一説には、家康の「本隊(少数の家康ら)」が
この長谷街道・大和ルートを隠密に猛スピードで駆け抜け、
通説の宇治田原・信楽ルートを通ったのは「穴山梅雪や随行の多人数(あるいは影武者)」
だったのではないか、とも推測されています。
本当のところは誰にも解りません、だからこそ、165号線を通る時
「家康ご一行がここを通って三河に帰ったのかも」
と思いをはせるのもいいかもしれませんね。
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